――愛しているよ

 誰かの声が聞こえた気がする。


 少し、ひんやりしてきた。肌掛け布団から突き出た脚を身体に引き寄せ、丸くなる。
 もう合い掛けを出さないと――。浮上しはじめた意識の中で目を閉じたまま思う。
 直後、ベッドの中に自分以外の気配を感じ、私は目を開けた。

 そこには、静かに横たわる夫がいた。

 なぜここに――。
 結婚して十年。長くふたりきりの生活を続けてきた夫婦の仲はいつのまにか冷めてしまっていたし、帰宅が深夜になることが多い夫とは寝室を別にしている。その夜も私は夫の晩食を用意して、夫を待たずひとり先に寝床についていた。

 いるはずのない夫が隣で眠っている。
 かつて恋をした、静かな寝顔。初めて夜を共にした翌朝、カーテンの隙間から差し込む陽があらわにさせたのは実に無防備な表情だった。夜はとても雄々しかったのに、寝ている間は別人みたいに気の抜けた顔をしていた。
 あの日と同じ、心底安心したような顔で夫は眠っている。

 長い間、社会から遠く離れた静かな場所で夫の付属品として生きてきた。
 夫に望まれたとおり、仕事に疲れた夫が快適に過ごせるよう家じゅうを綺麗に保ち、夫の健康に配慮した飯を作り、夫が外から持ち帰ってきた無音の不機嫌を躱し、ときおり受ける理不尽な叱責をやり過ごしながら、金銭面以外の生活に必要なことすべてを担った。
 ふたりで過ごす休日は、昔のように買い物や外食をすることがなくなり、我が家という閉ざされた空間の中で時間を浪費した。
 書斎にこもる夫と、夫の気配だけを感じながらリビングで過ごす私。もはや、ふたりとは言えなかった。同じ空間にいながら別々に暮らしているかのように、私はひとりだった。

 喧嘩らしい喧嘩はもうずっとしていない。問題はない。問題について深く考えなければ。
 いつしか、夫が怒ったり、喜んだり、安堵したりする原因の中に私は存在しなくなり、私は空気のように、あるいは空気よりも不可視なものになっていた。

 かつて奇跡のようなものだと信じたそれは、いつしかそこにあるのが当たり前になり、意識しなければ見えないものになり、やがてどこかに消える。
 結婚式のフォトアルバムみたいに――。
 おそらく人生で一番、たくさんの人に祝福され、もてはやされ、感謝の言葉を口にした日。私たちは幸せなのだ――そう実感した瞬間を収めた写真。
 大切にするつもりで、押入れの上のほうにしまい込んだ。ときおり取り出して懐かしみ、またしまう。そうして気が向いたときにしか取り出さない日々を続けていれば、いつしかそこに置いた記憶すら曖昧になる。

 互い以外に守る対象がない私たちには、それはいつも目につく場所に置いておくべきものだったのかもしれない。
 けれど、もう遅い。互いについて深く考えることをやめてしまった私たちには。

――ねえ、私、あなたを……

 その安らかな寝顔を見つめながら、私はふたたびまどろみの中に溶けた。


――愛しているよ

 誰かの声が聞こえた。コーヒーの香りを感じる。


 眠りから覚めたとき、夫はいなかった。

 夢――。思いのほか気落ちしている自分に気づく。夫が隣にいることが嬉しかったのかもしれない。それがたとえ現実でなくとも。

 布団を剥いで起き上がる。夫の好きなコーヒーを淹れようと思った。なんら特別なことではない。いつも夫のため機械的にしていることだ。でも今日は朝食後のコーヒーではなく、目覚めのコーヒーにしよう。久しぶりに私の分も一緒に。
 ベッドの中で薄目を開ける夫に、湯気の立つペアのマグカップを見せると、「愛しているよ」と照れくさそうな声が返ってくる。夫にひとつ手渡し、ベッドの上で一緒にカップを傾ける。しばらくそうしたあと、どちらからともなく唇を寄せ合う。それが朝の習慣だった。
 コーヒーの香りがする夫の唇が好きだった。もうずっと昔の話だ。

 ダイニングテーブルには、昨夜私が用意した食事がそのまま残されていた。
 ふと、ある絶望的な考えが浮かぶ。キッチンに走り、食器棚の一番上の奥に手を伸ばした。
 ガラスの小瓶に指が触れ、掴む。しかし急に恐ろしくなり、手離した。震える手をさすりながら荒い呼吸を繰り返す。
 気持ちのぐらつきは今に始まったことではない。これまで何度、その考えを打ち消すのに神経をすり減らしてきたか。それに、踏み出す勇気も覚悟もなかった。

 コーヒーを淹れると、熱を帯びたカップを両手に夫の寝室に向かった。いらないと言われる可能性は高い。カップからゆらりと立ちのぼる湯気が、いまだ頼りなく揺らぐ気持ちを示しているようだ。
 こぼさないよう気をつけながら扉を開け、遮光カーテンで薄暗さが保たれている部屋の中に入る。静かにベッドに歩み寄ると、サイドチェストに音を立てずにカップを置いた。

 夫は眠っている。その様子は――なんだかおかしい。自分で蹴ったのか布団がずり落ちていて、シーツは乱れ、片腕を上げてうつ伏せで寝ている。夫はこんなに寝相が悪い人ではない。

 カーテンを開けて部屋に陽を入れる。そしてもう一度夫を見て、私は息を呑んだ。

 呼吸が浅くなる。足がすくむ。
 まさか、まさか、ありえない。だって、私はまだ――。
 恐々としながら、私は夫の肩にそっと触れた。かすかにぬくもりを感じる。次に首筋に触れた。瞬間、息が止まりそうになった。私は飛び上がるように後ずさりし、伸ばされた夫の手の先にある枕元の携帯を引っ掴むと救急車を呼んだ。
 動かない夫の身体を抱きしめながら、私は願った。
 どうか、どうか、このまま――。


 ――愛しているよ

 寒い。コーヒーの香りがする。


 こめかみに涙が伝うのを感じた。本掛け布団に包まれた悲哀の中、だんだんと意識がはっきりしてくる。途端、背後にぬくもりを感じ、私は勢いよく背をひねった。

 そこには誰もいなかった。たしかに、気配がしたのに。コーヒーの香りも、その声も、たしかに感じたのに。

 夢と現実の狭間で悄然と揺らいでいると、突如、目の前にある事実が襲いかかってきた。
 気の遠くなる思いがする。そして、怒りにも似た哀しみが湧きあがる。こんな気持ちをずっと抱えていかなければいけないなんて。

――ねえ、私、あなたを裏切っていたのよ

 私はこれからも、自責の念と未練を背負い、赦しを請い、それでも生き続ける。

――だから、もう言わないで

 あなたがいなくなった今、ふたりでいたときよりも強く、あなたを感じる。

 ベッドから出てキッチンに向かうと、すでに起床してコーヒーを淹れてくれている彼の姿があった。
 薫り深い空気に包まれた、なにげない朝の風景。絵に描いたような幸福に、無情にも愛おしさがこみあげる。

 おはよう、と声をかけた。
 私に気づいた彼は、少し寂しげに眉を下げたあと、静かに、とても穏やかに微笑した。

「今朝は一段と冷えるね」

 その優しい低音が、少しだけ、似ている。


――愛しているよ

 あなたの声が、耳元で冷たく響いた。



『モーニングコーヒーと残響』



Theme tune: I Will Say Goodbye
Bill Evans Trio