きみという新しい魂が誕生してから、ついに三十年を越える年月が経過する。

 

 ここから遠く遠く離れた、荒涼とした大地の広がる寒い島。丁寧に愛情をかけられ、いろいろな人の力を合わせてようやく生まれたきみは、何色にも染まらない、まっさらで、荒々しく、無遠慮な命そのものだった。

 大きな木樽が並ぶ、海の匂いがする湿っぽくて暗い場所。三十年以上前、そこで眠りについたきみはいったいどんな夢を見てきたのだろう。その下に広がる海の中を魚になって自由に泳ぎまわる夢。それとも、空を飛ぶカモメになって海を眺める夢。


 僕はそんなきみの様子を想像し、時にはきみのことを忘れそうになり、それでもふとした瞬間に思い出して幸せな気分に浸りながら毎日を過ごしてきた。

 きみの中に流れてきた時間と、僕を追いかけてくる時間はまるで違う。

 きみを待つ年月は、僕には少々長すぎた。きみより何十年もはやく生まれた僕はすっかりくたびれてしまったけれど、きっときみは美しい色と濃厚な香りを手に入れた極上なレディに生まれ変わっている。ゆっくり、じっくり、波の音を聴きながら、潮の香りを感じながら、まろやかに、甘やかに、色香を増してきたはずだ。

 

 きみは、生き急ぐ僕を引きとめてくれる唯一の存在だった。

 

 はやく、きみに触れてみたいよ。

 

 はやる気持ちを抑え、今夜はいつもよりお洒落して出かけよう。ネクタイを締めてジャケットを羽織り、帽子を被れば、きみにふさわしい紳士に変身する。なじみの店で待っていてくれるきみのことを想うと、小雨の降る路地を歩く足取りも軽くなる。杖なんか必要ないほどに。

 分厚い木扉を押して薄暗い店内に入ると、僕は迷わずカウンター席に腰かける。耳に入るBGMは『It's Been A Long, Long Time』。まるで僕を待ちわびていたきみが口ずさんでいるかのよう。

 数席離れたスツールに座る完璧な美女には目もくれず、いや、ほんの少しだけその美貌に癒されてから、僕は顔なじみの若いバーテンダーに目配せする。

 

 ついに、この時がきた。

 

 思慮深く、上品な色気と、その濃密な芳香に誘われて、僕は三十年分の期待を声にする。

 

「そのウイスキーを一杯」

 

 見慣れたバックバーの中でひときわ異彩を放つ新入りボトルを見つめて口にすれば、バーテンダーは待っていましたと言わんばかりの満足げな笑みを浮かべた。

 

 今夜は、この枯れた喉を熱く潤してくれる琥珀色のきみに酔わされて、いい夢を見られそうだ。グラスに透過するきみの、気の遠くなるような時間を思わせる奥深い色と、立ちのぼる円熟の極みに達した熟成香に溶け合う、甘い夢を――。



『三十年越しの色香』




Theme tune: It's Been A Long, Long Time

Kitty Kallen & Harry James Orchestra